生い立ちぬ

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小学2年生の授業に、自分の名前の由来を調べたり、思い出の写真を持ち寄ったりして、自らの生い立ちを発表する、というものがあるらしい。また、小学4年生の授業にも、10歳を節目とした「2分の1成人式」という、生い立ちや、親への感謝の手紙を発表するものがあるそうだ。これらの授業には「自分自身の成長を振り返り、多くの人々の支えにより自分が大きくなったこと、自分ができるようになったこと、役割が増えたことなどが分かり、これまでの生活や成長を支えてくれた人々に感謝の気持ちをもつとともに、これからの成長への願いをもって、意欲的に生活することができるようにする」という狙いがある。目的は最後の一文、「(これからを)意欲的に生活すること」であって、過去を振り返ること自体ではないのがわかる。

たしかに、過去を振り返ることで、多少は未来に対して意欲的なれるかもしれない。未来のことはわからないけれど、過去を振り返ることである程度予測することはできる。たとえそれがどんな過去であっても、自分の未来を予測するためには、自分自身の能力や状態、周囲の環境を把握しておくのは大切なことだ。「すべては未来のためである」という点を児童にもしっかり伝えれば良いと思うけれど、おそらく、教える側の教師にすら伝わっていないのではないか。だから児童も、形だけの、大人が喜びそうな言葉を並べる。遠い未来のことよりも、目先にある数十分の授業ひとつさえ乗り越えられれば良い、と考える。それは、本来の意図から大きく外れたものではないだろうか。

櫻井の時も似たような授業があったけれど、覚えている範囲では中学1年生のころだったと記憶している。名前の由来と思い出の写真くらいは何の抵抗もなかったけれど、親への感謝の手紙だけは白紙で提出した。恥ずかしかったとか、そういう理由ではなく、言葉にできるものではないし、するものではない、というのが当時の櫻井の意見だった。だいいち、手紙にしたところで、どうして無関係の人間にそれを伝えなければならないのか、その意味が不明だった。

当時の担任は比較的ものわかりのいい人で、一言断った上で親に白紙の手紙を渡してくださった。受け取った母親にはきちんと自分の意見を伝え、そして、彼女は納得してくれた(端から諦めていただけかもしれないけれど)。たぶん、これらの行為こそが櫻井が持っている過去の結晶であり、未来を意欲的にさせるものなのでは、と思う。誰かに理解してもらう必要はないのだ。

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