責任の所在

ダブリンの、日本人クリスチャン集会に参加した時の話です。牧師のグレアムさんが、参加者の1人に目隠しをさせ、まずは、杖を持たせて1人で歩かせました。それから、目の見える人が手を引いて、2人で歩かせます。その後、「どちらが気分的に楽か」と、目隠ししている参加者に訊きました。目隠しをしている当人も、はたから見ていたこちらも、「誰かに手を引いてもらう方が楽だ」という意見で一致しました。そこでグレアムさんは、「どうして誰かに手を引いてもらう方が気分が楽になるのか」を訊ねました。

最初に挙がったのは、「1人じゃないから」という意見です。誰かと一緒にいた方が、安心できるし、気分も楽になる、という理屈です。しかし、人によっては、誰かと一緒にいるのが煩わしく思うのでは、と僕は思いました。僕の意見は、「杖を使うよりも簡単に歩けるから」でした。「道の状態を調べる」や、「判断する」といった、手順の簡略化が、「楽」なわけです。これなら、手を引く相手が、機械や、動物の場合でも適用できます。ただ、楽になるのは手順であり、「気分的に楽か」と問われると、少々的外れな回答であることは否めません。

グレアムさんの回答は、実にシンプルで、「責任の所在が、自分から他人に移るから」というものでした。もし、目隠しをした人が転んだ場合、自分1人で歩いていたのであれば、それは自分の責任です。しかし、誰かに手を引いてもらっていれば、手を引いた人の責任になります。この責任転嫁こそ、気分が楽になる原因である、というのです。なるほどな、と思いました。大学で、いろんな国の、いろんな人を見てきましたが、「問題を人のせいにする」「自分を正当化しようとする」のは、世界共通でした。人間なら誰しも、ということです。



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たぶん、音楽教室に人が来るのも、この責任転嫁が理由なのかもしれません。技術の上達は、本来個人的なものです。しかし、教えを請うことで、講師に責任を負わせることができます。音楽を教えるのはもちろん、こういった責任を持つことも、講師の仕事の一部なのかもしれません。

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