名前を覚えれば知識になるのか

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櫻井夫婦はクイズ番組を一緒に見ることが多い(参考『5コマ漫画「クイズ番組」』)。妻は大変に聡明な方で、大半の問題は彼女が答えているのだけれど、強いて挙げるなら「歴史」が苦手だそうだ。理由を訊ねると「人名が覚えられない」らしい。「そもそも『人名を覚える』という作業は歴史の勉強ではなく、国語の勉強だ」みたいなこともおっしゃっていた。国語が苦手なのだろうか。その割に、よくわからない国の珍しい料理や、得体のしれないデザートの名前を知っているものである。

そう考えると、学校の授業の大半は国語で成り立っているように思える。理科だったら花の器官や星座、法則や元素記号の名前を覚えることが目的とされている。社会も気候や工業地帯の名称を問われるし、数学でさえ平方根や円周率を覚えさせられる。音楽も例外ではなく、勉強するのは作曲者や楽曲、記号の名前だ。このように「名称を覚えること」が目的になっているのは、テストで出題しやすいからではないだろうか。ボキャブラリーの多さで知識を測っているわけである。

櫻井の時は理科の実験で、実験前に「考察」というものを書かされた。教師が「実験前に実験結果を予想しましょう」と言うので、「(教科書の)次のページに書いています」と応えたら「自分で考えなさい」と注意された思い出がある。今だからこそ教師の言っている意味がわかるけれど、大半の学生にとって勉強とは「テストで良い点を取る」が目的なのだ。実験結果がどうなるか考えることよりも、テストに出題される正しい実験結果を覚えることの方が重要なのである。

ボキャブラリーを増やすのは無駄なことではないが、知識とボキャブラリーはイコールでない。「徳川家の歴代将軍の名前を言える」と誇る人がいるかもしれないけれど、Wikipediaを見ながらだったら誰にだってできる。「道具を使うのは卑怯だ」と思うかもしれないが、道具を使っても適わないのが本当の知識なのでは。

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