リファレンス

Pocket

ある情報が開示された際、その情報の信頼性を確立するために必要な証明のことを指す。論文を書いたことがある人ならば馴染み深い言葉だと思う。たとえば、「青年期におけるスマートフォン使用がもたらすコミュニケーション障害について」というテーマで論文を書くには、スマートフォン使用とコミュニケーション障害の因果関係をハッキリさせなければならない。これがないとただの感想文になってしまうのだ。あったとしても「ネットの掲示板で見た」などでは信頼性に欠けるので、しかるべき過去の研究資料や多量の実例などを挙げる必要がある。これが、リファレンスである。

ネットの普及で情報の数は莫大に増えたけれど、リファレンスのない情報は非常に多い。「熱中症で倒れた人を助けるためにバイクを駐車したら警察に罰金を取られた」という記事を最近見たけれど、「人助けのために駐車したのに、警察の対応は間違っている」という感情的な内容が書いてあるばかりで、「バイクをどこに駐車したのか」「どれだけの間駐車していたのか」「警察に対して詳しい事情を話したのか」といったリファレンスに欠けていた。たとえば、「交差点の真ん中で2時間以上放置していた」や「具体的な説明を怠った」という状況だったならば、警察の対応は妥当である、と考えられる。結局、その記事だけでは「警察の対応が間違っているかどうかは不定である」としか言いようがなかった。毒にも薬にもならない情報である。

さて、クリスチャンにとって最大のリファレンスは「御言葉」、つまり、聖書の出典である。ことばは神であり(ヨハネ1:1)、聖書はすべて神の霊感によって書かれたもの(2テモテ3:16)と信じているので、どんな情報においても「それが聖書的であるかどうか」が最も重要になってくる。ある牧師が「私は御言葉1つで2時間でも3時間でも説教できる」と言っていて、実際説教を聞いてみると面白い話ではあったのだけれど、果たしてそれが聖書的か、と考えるとリファレンス不足は否めなかった。たしかに聖書のことばは引用しているが、大部分は牧師のことばであって、「本当にその説教は神を中心に説いているのか」と考察できるからだ。あるイギリスの宣教師は、40分ほどの説教中に十数個は御言葉を引用していた。ノートに記すのがやっとなほどだが、その分、聖書的説得力は強い。

アメリカで同性婚が合法化された際、「同性愛は忌むべきものである」という聖書のリファレンス(ローマ1:26-28)(レビ18:22)(コロサイ3:5)があるので、クリスチャンはいくら大統領が「平等へ1歩近づいた」と言っても信じられないし、むしろ「世の終わりだな」と思うのである(マタイ24:12)。念のため断わっておくけれど、当ブログは「リファレンス」について解説したものであり、「同性婚の是非」について言及したものではない。ただ一言コメントするならば、このトピックに関して議論の余地はない、とだけ言っておく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA