ジャズを教えてくれた人

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櫻井が通っていた専門学校は、ジャズ音楽を中心とした指導と教育で有名だ。櫻井もジャズが学びたくて入学したのだけれど、一番学びたかったビバップ(1940年代のジャズ)に関する授業は仕事(新聞配達)の都合上、選択できなかった。当時から「ビバップこそジャズ」という考えを持っていたため、「つまらないが、仕事だからがまんするしかない」と思いながらチック・コリアを演奏していたのである。

なんとか少しでもジャズ(この場合、ビバップ)に触れたいと思い、新聞配達の休みとジャズ・セッションの日が重なった時は、セッションへ行くことにしていた。その中で訪れた、神戸のとあるジャズ・バーでの話。

その店は客が大変少なく、日曜日のセッションだというのに参加者は櫻井ともう1人だけだった。人嫌いの櫻井にとって、「人が少ない」はアドバンテージである。どうやら家族で経営しているらしく、セッション・ホストはマスターとその家族だった。毎晩演奏しているだけあって、彼らの演奏は秀逸であった。

櫻井が専門学校に通う学生で、ビバップに興味があることを話すと、どうやらマスターもビバップ好きであることがわかった。彼はYouTubeを使って「これがジャズだ」と、ザ・シャドウズのライブ演奏を聞かせてくださった。知らない人のために解説しておくと、ザ・シャドウズはサーフ・バンドである。「イギリスのベンチャーズ」といったところか。

もちろん、サーフ・ミュージックがジャズと言いたかったのではない。そのライブ演奏のように、小節線をまたいで呼吸を合わせることがジャズだ、と言いたいようだった。一緒にセッションする時も、マスターのアドバイスはどこか抽象的で心に残る。決して押しつけがましいものではなく、聞いて悟らせる、そんな教え方だった。

新聞配達の関係で次はいつ来られるかわからないけれど、また来たいとの旨を伝えると、マスターは「平日でもいつでも良いから、来たら叩かせてやる」と言ってくださった。大変商売上手である。お言葉に甘え、櫻井は定期的に足を運び、ドラムを叩かせてもらった。マスターはミュージシャンとしても、人間としても尊敬できる年上の男性で、月並みながら櫻井は「父親ってこういうものなのかな」と思った。

マスターの訃報を聞いたのは、専門学校を卒業する直前だった。マスターが入院したことは聞いていたけれど、そのまま亡くなったらしい。櫻井にとって初めての、親しい間柄の死だった。

最後の会話は、櫻井の海外留学についてだった。2年は日本に帰ってこない、という話をするとマスターは「親に会って話をしておけ」と言った。理由を訊ねると彼は「人はいつ死ぬかわからない。留学している間も親が生きているとは限らない。もちろん、私も死んでいるかもしれない」と答えた。まさか、本当にそのまま帰らぬ人になるとは思ってもみなかった。

あれから6年が経つ。記憶も思い出もおぼろげになってきたけれど、こうして春が近づくと、ふと思い出して切なくなる。

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