オーシャン・ウェーブス

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櫻井が幼少期を過ごした埼玉には、海がない。海水浴へ出かけるには、東京を越え、千葉か神奈川の辺境まで、片道2時間以上かけなければならない。車があればもう少し楽に行けるようだけれど、櫻井の家に車はなく、そもそも好んで遠出をするような家庭でもなかったため、海とは縁遠い暮らしをしていた。小学校の修学旅行は群馬の山奥だったし、中学校の修学旅行は京都と奈良、その他の遠足関連も当然のように山が選ばれた。強いて近いものを挙げれば、池袋の水族館へ行く遠足が幼稚園のころにあったけれど、櫻井は当日熱を出して行けなかった。もう20年以上前の話だけれど、未だに覚えているあたり、根に持っているのだな、と思う。

海と縁遠かったせいか、幼いころは海に対して憧れを抱いていたと思う。6歳くらいまで水泳を習っていたため、泳ぐのだけは得意だったから、広い海で自由に泳げたら気持ち良いだろうな、と想像していた。「海へ行きたい」と、何度か母親にせがんだこともある。その度に母親は、「海水浴場は混雑している」「潮風はべたべたして気持ち悪い」「砂浜の砂は洗い落すのが大変」など、海へ行くことの非合理性を並べ立てた上で、プールの利便性を語った。おかげで櫻井は、海へ行ったこともないのに、海の悪いところをたくさん知っている小学生になった。

初めて海へ行ったのは高校2年の修学旅行で、場所はハワイだった。ビーチではなく、港から小型ボートで10分ほど沖合に出た、サンゴ礁のようなところだった。「海は青い」というのが一般的なイメージだけれど、櫻井が初めて入った海は、海底が見えるくらい透き通ったエメラルド・グリーンだった。海に入った第一印象は「とにかくしょっぱい」だったけれど、見渡す限りに広い海は息を飲むほどの絶景で、素足に感じる砂利の感覚や、生き物に溢れた水中はとても新鮮だった。一緒だった友人にその旨を伝えると、「贅沢な海デビューだな」と言われた。千葉出身の彼曰く、「千葉の海は黒い」らしい。その数年後、同じ友人と千葉の海へも行った。たしかに、ハワイほど綺麗な海ではなかったけれど、潮風や砂浜もそれほど不快ではなかったし、シーズンの過ぎた9月ごろに行ったため、櫻井たち以外に観光客はいなかった。きっと母は、海自体を嫌っていたわけではなかったのだろう。

大学時代を過ごしたダブリンは、海に面した街だ。都心を中心に南北を走る電車が海岸線に沿っているため、内陸よりも海沿いが栄えている。「海が見える家」というのも、珍しくない。櫻井が住んでいた家も、海まで歩いて行ける距離にあった。ただ、2年間住んでいて1度も海水浴へ行っていない。真夏でも20度を下回る平均気温なので、とてもじゃないが、泳ぐ気になれなかったのだ。泳いでいるのはサーファくらいである。それに、泳げる気温だったとしても、「海水浴しに留学しているんじゃない」と、スタジオに引きこもる生活を続けていただろう。やはり櫻井も、海が嫌いというわけではない。

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