「努力したけど駄目だった」と「やればできるけどやらない」は同レベル

Pocket

どちらも事を成していない、つまり、「できていない」のに、前者は好意的に受けとられることが多く、後者は反感を買われることが多い。おそらく、「努力は良いものだ」という思い込みが、「結果が出せなくとも、努力したならばよしとする」という風潮を生んでいるのだろう。はっきり言って、非常に低俗な考え方である。今まで一度だって努力したことがないから、そんな的外れなことが言えるのだろう。努力とは、すべからく、みっともないことである。

そもそも努力とは、具体的な行動を示すものではない。当人、あるいは、それを観察している誰かが「自分は(あの人は)頑張っている」と認識した際に生じる、単なる感覚に過ぎない。「努力は報われる」という言葉があるけれど、報い、つまり報酬は、感覚に対して支払われるものではなく、行ないに対して支払われるものだ。よって、「努力と報いは無関係である」が正しい。大学を卒業した時、色んな人に「努力して頑張ったんだね」というようなことを言われたけれど、最初、それが褒め言葉なのだと気がつかなかった。櫻井が大学を卒業できたのは、卒業試験に合格したからである。自分で言うのもおかしな話だけれど、評価されるべきポイントはそこなのでは、と思う。

一方、「やればできるけどやらない」は、やればできる、つまり、結果を出す能力を既に持っている、ということだ。能力がある分、努力している人よりは救いがある、と言える。問題なのは、「なぜやらないのか」である。「やりたくないから」「他にやりたいことがある」といった理由が想像できるけれど、要は「やるべきことを見失っている」状態なのだ。しかし、「やるべきことをやる」より、「やるべきことを知る」方が何倍も難しいことなので、立ち止まってしまうのは至極、当然のことだろう。ただ、「自分はやるべきことを見失っている」と自覚している人はわずかだし、それ以前に、能力がないのに「やればできる」と思い込んでいる人がほとんどだと思う。

こういうことを書くと、「ティモは努力否定派なんだ」と言い出す人がいるかもしれないけれど、櫻井は努力を否定しているわけではない。能力のない人がやるべきことをやるためには、努力するほかない。言い換えれば、努力することは無能であることと、ほぼ同義なのだ。それを美化する風潮がばかばかしい、というだけである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA