賜物と才能の違い

神様から与えられた素質を「賜物(たまもの)」と言います。「才能」とほとんど同義ですが、才能は「自分の能力」であることに対し、賜物は「授かりもの」という扱いになります。才能が「アビリティ(ability) 」、賜物が「ギフト(gift)」と、英訳するとわかりやすくなります。たとえば、卓越した演奏技術を持っていたとして、それを自分の能力として扱うなら才能になりますし、神様から与えられたものと考えるなら賜物になります。どちらも卓越した演奏技術には違いないので、客観的に見れば単なる考え方、捉え方の違いのように思えますが、主観では大きな差があります

聖書を読んでいて気がついたのですが、賜物は「用いる」「生かす」「受ける」「求める」「得る」ことはあっても(1ペテロ4:10)、才能のように「育てる」ことはありません。神様から与えられる才能とは、育てるまでもなく完璧なものなのでしょう。しかも、欲しい賜物は熱心に求めれば与えられますし、「1人1つまで」でもなく好きなだけ持てます。神様は太っ腹なのです。

ただ、受け取った賜物は神様のために用いないと取り上げられてしまいます(マタイ25:14-)。「天才ハッカー集団が政府にサイバーテロ」みたいな悪用はできませんし、使わずに腐らせることもできません。悪の才能はあっても、悪の賜物は存在しないのです。こういうところからも、賜物が神様のものであることが伺えます。言ってみればレンタルされた才能であって、自分の所有物というわけではないのです。



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また、才能による成功は自分の栄光になりますが、賜物によって成功した場合、その栄光は神様のものになります。自分は与えられた賜物を使っただけで、結果を出したのは神様である、というわけです。海外のスポーツ選手が結果を出した時に十字を切ったり手を組んだりしていますが、これらは神様への感謝を表しつつ、得た結果を神様へ還元しているのです。

僕はドラムの才能もなければ音楽講師の才能もありませんが、賜物は与えられたと思います。楽器演奏も人付き合いもとびきり不器用なのに、今こうしてドラム講師をやっていられるのは、奇跡としか言いようがありません。自分の才能がもたらした結果ではなく、自分の内にある神様の賜物によって引き起こされた結果であると、僕は信じています。

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