聖書の見方が変わってきた

旧約聖書の中に『エレミヤ書』という文書があります。祭司の子エレミヤが神様の言葉を預かり賜る「預言者」となって南ユダ王国が滅ぶことを預言する、というのが大まかなあらすじです。

その1章では、神様がエレミヤの前に現れて「実を言うと君、わしの代弁者やねん」とカミングアウトし、エレミヤが「あかんて! そないことできひんし! わてはまだ20歳そこらのガキんちょやで!」と驚き、辞退しようとするシーンがあります(エレミヤ1:4、6)。若さゆえに、そんな大役は引き受けられないと考えたのでしょうが、神様の返事は「いけるて。わしがついとるし、面倒みたるわ」という励ましでした(エレミヤ1:8)。

以前はこのシーンを「神様はいつも励ましてくれる」と読んでいたのですが、最近読んだ時は「自分は若い人を励ませているだろうか」と考えるようになっていました。前者はエレミヤ視点、後者は神様視点です。加齢とともに感情移入する対象が変わってきたのかもしれません。無意識のうちに、若い時は若いエレミヤに惹かれていて、年を重ねた今は大人の視点でエレミヤを見ているのだと思います。



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そう考えると、人は自分と近しいものに惹かれていくのかもしれません。「同族嫌悪」というネガティブな言葉もありますが、これも引き寄せられている例と言えます。逆を言えば、多くの人に好かれている人は、それだけ多くの人と近しい存在になれる、ということです。「国民的アーティスト」と呼ばれる人たちは若者にもなれるし、大人にもなれるのではないでしょうか。

また、自分と近しいものに惹かれるということは、惹かれるものに自分を見出すこともできるはずです。なりたい自分になるために必要なのは、なりたいものに惹かれることです。キリストのようになるために、キリストを愛するのは避けて通れない、ということです。

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