神様に祈るのはどんな時か

困った時の神頼み」という言葉があります。もともとは「苦しい時の神頼み」でしたが、時代と共に「困った」程度で神様に祈るようになったわけです。些細なことでも祈るのは立派なことですが、一般的にこの言葉は信仰の薄さを揶揄したものなので、褒め言葉にはなりません。

キリスト教の教えでは「絶えず祈りなさい」とあります(第1テサロニケ5:17)。「食事の前に」とか「日曜礼拝の時は」ではなく「絶えず」、つまり、今この瞬間も祈りなさい、と教えています。僕はクリスチャンですが、今はブログを書きながら「このブログはどうやってオチをつけようかな」と考えてしまっています。ちょっと手を休めたら「次のブログのネタはどうしよう」とか「今日の夕食は何にしよう」という具合に先のことばかり思いあぐねていて、神様の入り込む隙間がありません

そんな不信仰な僕ですが、朝起きて聖書を読んだり、祈ったりすることは習慣化できています。1日の終わりに聖書を読む方もいらっしゃいますが、僕の場合、夜は睡魔に負けてしまいますし、決まった時間に聖書が読める(日中のスケジュールに左右されない)というメリットもあるので、朝方を選んでいます。

また、何か結果を得られた時は感謝の祈りを捧げています。栄光は自分のものではなく、神様のものであると考えているからです。仕事前にも祈ることが多いです。特にレッスン業は、もう3年が経とうとしていますが、いまだに緊張しています。この話をこないだ生徒様にしたら「全然そんな風には見えない」とおっしゃっていました。神様が働いてくださっているのだな、と感じる一瞬です。



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家族ができてからは「一緒に祈る」という習慣もできました。仕事が終わって家に帰れば、妻が食事を用意して待ってくれています。自分も仕事で忙しいだろうに、わざわざ時間を割いてくれている妻に心から感謝していますし、そんな妻を与えてくださった神様にも感謝しています。

なぜ、祈るのでしょう。「クリスチャンだから」「聖書がそう教えているから」というのは単なる結果であって、実際は「祈りたいから祈っているだけ」なのです。祈りが必要だからクリスチャンになったのであり、祈りが必要だから聖書を読んでいるのです。大事な真理ですが、自分でも時々忘れてしまうので、今後はもう少し心に留めていたいです。

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