フィクションの世界において、クラシック音楽的思考が悪者扱いされる風潮について

クラシック音楽的思考とは、主に、「厳しい指導」「譜面通りの正確な演奏」を指します。たとえば、ロックやポップスがテーマの作品に、クラシック出身の演奏家であるキャラクターAが出ると「譜面通り弾くなんて、音楽じゃない」と非難されます。また、自分の思うがままに演奏するキャラクターB(多くの場合、その物語の主人公)の演奏を見たキャラクターAが、「こいつ……できる!」と、キャラクターBを脅威に思う展開があったりします。

また、クラシック音楽がテーマの作品も、例外ではありません。幼少から厳しい指導を受けているキャラクターよりも、「譜面通りじゃなくて、もっと感情的に弾こうよ!」というようなことを言っているキャラクターの方が、メインを張ることが多いのです。

この風潮は、音楽を扱った作品に限った話ではありません。たとえば、「バスケット・ボール」がテーマだとしましょう。とあるキャラクターCは、バスケがしたいと思っています。しかし、幼少からクラシック・ピアノを習っているため、「あんな指を痛めるスポーツなんてやめなさい!」と、親(あるいは講師)に止められています。この場合は、最終的に「僕は、バスケがやりたいんだ!」と、復帰する展開になります。ようするに「バスケは正義、クラシックは悪者」という構造です。

なぜ、このような風潮があるのでしょうか。一言で言えば、「悪者にしやすいから」です。フィクションとは、主人公がいて、「その主人公が信じる(社会的モラルにのっとったものとは限らない)正義」が存在します。そして、その正義が活躍するために、悪者が必要なのです。



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くわえて、クラシック音楽的思考を示唆する、「厳しい指導」「譜面通り」は、「この世のしがらみ」「規則」といった、現実世界において、不満を持たれる対象を連想させます。これらを悪者にし、正義に勝たせることで、読者は、主人公に共感しやすくなるわけです。

最後に、現実世界のクラシック音楽の話をしましょう。「譜面通りに演奏するなんて、音楽じゃない!」というフィクションの意見は、ある程度、現実世界でも通用します。何をもってして音楽を音楽とするか、定義は人によって異なるからです。しかし、演奏技術においては、譜面通り弾く方が、そうでない場合と比べ、難しいといえます。

「自分の感性のままに演奏する」というのは、もともと自分が持っているものをアウトプット(出力)するだけです。しかし、譜面通り演奏するには、まず、演奏する情報を自分の中にインプット(入力)し、それからアウトプットしなければなりません。同じ「演奏する」という行為でも、後者の仕事量は、前者の倍なのです。さらに、感性のままに演奏する場合、何をアウトプットしても正解になりますが、譜面通りに演奏する場合、インプットしたこと以外はアウトプットできない、という制約があります。

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